身動きが取れないときこそ染み入ってくる音楽のよさ


この頃は何やかや、疲れや不調続きで思うように今月やりたいことをやり遂げることが計画通り進まず、低空飛行とすらも言い難いような日々が続いていてゲンナリしがちでした。

だけど、布団に入りながら、疲れているときにこそこれまで以上の感動や感慨をもって染み入ってくるものが、横になりながらもじーっと聴き入っている音楽にありました。
それが日本の曲だろうが、地球上で日本の反対側にある遥か遠くの国の曲だろうが、それまでにもう何度も繰り返し聴いて耳にも心にも馴染んでいる曲たちでありながらいやおうなしに射止められるというか、それぞれの世界に強力に引きつけられていくように、各曲の素晴らしさに再度気づかざるを得ない瞬間でした。

文字では到底表現し尽せないほどのこの感動がある限り、何度聴いて馴染んだどこの国の曲であれ、私にとってその音楽は聴くたびに毎回新しいメッセージや意味を持つエネルギーとなります。
音楽なくして人生はないというほど、いわば心の栄養の方の”食”です。
聴く耳や聴こうとする耳、何かをそこから感じ取ろうとする心さえあれば、どんな音楽や音でさえ、たとえ歌詞があろうがなかろうが、自分にとって大きな意味のあるメッセージになることが分かってきたのも、最近のことなんです。

それはかつてのJポップでも同じでした。
SPEEDの”I remenber…”も、また聴いてはこの曲のブリッジ部分に投影されたもの、つまり好きな人と過ごした南の島のような真夏の砂浜一帯を照らし返すような太陽の光。
木漏れ日というには眩しい、ヤシの葉の間からエネルギッシュにこぼれ落ちるようにきらめく感じを感じ取り、やっぱりいい曲だなと思いました。
こういう光の照り返し表現は、活字なんかよりも音楽の方がよっぽど鮮明に表せるものだ。

一方で、私の敬愛するソンコマージュ恩師が、悲しくも力強い美しさに充ち充ちたフォルクローレをそのギターで弾きこなすときは、また質の違う光が感じ取れます。
この頃は連日、恩師の曲を慕い求めるように聴き入っては、大変な感慨に浸っています。
曲の訴えようもそうなのですが、恩師の巨匠ユパンキと対面しているときのかつての古い写真を最近しみじみ見たとき、お互いに抱いている畏敬の想いが交差し合っているからこそ滲み出ているのであろうソンコマージュ恩師の顔つきの、何と幸せそうなことかと。
その顔つきを一目見たとき、ただただ感慨極まるあまりに泣けてきました。

いずれにしても、もし今月思うように身動きが取れて事がうまくいっていたら、疲れ切った体を横たわらせて聴いたからこそ響いてきた、音楽の中の新しいメッセージに気づくのがもっと遅れたかもしれない。
そう思うと、今月疲れ気味な日々が続いたのも、わたしにとっては意味があったように思います。

Posted in blog by zara